材料分野における研究開発DX(デジタルトランスフォーメーション)の最終目的は、「市場ニーズに合う製品をより短い期間で開発すること」です。この目的を実現するにはさまざまな手段がありますが、中でも特に重要なのが「探索サイクル(仮説立案→候補選択→検証→結果解釈→・・・)の高速化」です。
探索サイクルの各工程を高速化すれば、候補材料の当たりを早くつけて無駄な試行錯誤を減らしたり、失敗原因を早めに切り分けて次の実験方針を迅速に決めたりできます。本記事では、この「探索サイクルの高速化」に焦点を当て、現場で生じる課題やその解決手段について解説します。
材料分野における研究開発DXとは

材料分野の研究開発DXは、データ基盤の整備や基幹技術の開発、業務のデジタル化などを含む広い概念です。例えば内閣府のサイトでは、「研究DX」として、研究データの管理・利活用促進のための環境整備や研究インフラの整備、研究コミュニティの醸成といった取り組みが挙げられています[1]。
本記事では、材料分野における研究開発DXを以下の3つの観点で整理します。
- 研究環境・研究業務のデジタル化:電子化により研究基盤を整える
- 研究データの活用に向けた土台づくり:データの比較・再利用・分析が可能な環境を構築する
- 探索サイクルの高速化:データやデジタル技術を活用して、研究開発プロセスそのものを加速する
各観点について、以下で詳しく解説します。
研究環境・研究業務のデジタル化
最初の観点は、研究環境や日常業務のデジタル化です。代表的な取り組みを以下に示します。
- 電子実験ノート(ELN: Electronic Laboratory Notebook)の導入:紙の実験ノートをデジタル化し、実験記録の検索性や共有性、記録品質を向上させる[2]
- ラボ情報管理システム(LIMS: Laboratory Information Management System)の活用:サンプル情報や測定データを一元管理し、実験の進行状況を把握・追跡する
- 社内ポータルの開設や手続きの電子化:各種申請・報告のワークフローをデジタル化し、事務作業の負担を軽減する
ELNやLIMSを導入することで、実験結果や実験条件などの情報共有がスムーズになり、研究知識や実験ノウハウの属人化を解消できます。たとえば、前任の研究者が異動や退職をしたとしても、ELNに蓄積された実験記録があれば効率的に引き継ぎが可能です。さらに、こうした実験データの集約化は、研究結果の再現性向上や実験データの抜け漏れ防止にもつながります。
研究データの活用に向けた土台づくり
第二の観点は、蓄積された研究データを分析・活用するための土台づくりです。ELNやLIMS上のデータを複数のシステム・プロジェクト間で横断的に比較・分析・再利用するには、データ形式や記録ルールを組織全体で標準化する仕組みづくりが欠かせません[3]。
具体的な取り組みの例を以下に示します。
- データ形式の統一:CSVやJSON、特定のスキーマなど、チームや組織で共通のフォーマットを定める
- メタデータの整備:実験条件(温度、圧力、前処理方法)、使用装置、測定日時などを、データとセットで記録する
- 材料/試料IDの設計:材料や試料にユニークなIDを付与し、トレーサビリティを確保する
- データを蓄積・検索する仕組みの検討:データベースやデータレイクなど、組織に合ったデータ基盤を構築する
例えば、国立研究開発法人 物質・材料研究機構(NIMS)は、材料データの収集・利活用を目的とするデータ基盤をデジタルエコシステム「DICE」として提供しています[4]。DICEは、研究データの蓄積・構造化を支援する仕組みや、メタデータに基づいてデータを検索・再利用しやすくする仕組みを備えていることから、研究データ活用の土台づくりに関する具体例といえます。
探索サイクルの高速化
最後は、データやデジタル技術を活用して、研究活動の中核である「探索サイクル」そのものを高速化する取り組みです。
探索サイクルとは、材料分野の研究者が日常的に回している以下の研究開発プロセスのことです。このプロセスを「より短期間で」回せる状態をつくることで、目標の材料をより早く・効率的に開発できるようになります。

- 仮説立案:過去の知見や理論をもとに「この組成・構造がよいのではないか」と仮説を立てる
- 候補選択:仮説に基づき、検証すべき材料候補や実験条件を絞り込む
- 検証:合成や評価を通じて、候補材料の物性や挙動を確認する
- 結果解釈:得られたデータを分析し、なぜその結果になったのかを考察する
- 次の仮説立案:考察をもとに仮説を更新し、次のサイクルに入る
DXを導入すれば、探索サイクルの各工程における意思決定を早めることができます。例えば「候補選択」の工程では、過去の実験データや条件を整理して参照しやすくすることで、有望な実験候補を素早く絞りこむことが可能です。また「結果解釈」の工程では、得られたデータを条件と関連づけて比較・分析することで、うまくいった(うまくいかなかった)原因を素早く切り分け、次の「仮説立案」へとつなげることができます。
探索サイクルの各工程を高速化することは、「市場ニーズに合う製品を短期で開発する」という研究開発DXの最終目的に直結します。本記事では以降、この「探索サイクルの高速化」に焦点を当てて解説します。
研究開発DXによる「探索サイクルの高速化」を阻む現場の課題
材料開発の現場には、探索サイクルの高速化を阻むボトルネックがいくつか存在します。ここでは、現場で特に生じやすい3つの課題を取り上げます。
探索候補となる材料が多い
材料開発では考慮すべきパラメータが多く、材料候補の数が膨大になる点が大きな課題です。
例えば、電池材料の正極材を開発するケースを考えましょう。この場合、基本組成に加えて、元素の置換比率、添加剤の有無や種類、合成温度、焼成時間といった多くのパラメータを考慮する必要があります。3つの元素の組成を10段階で変化させるだけでも、組み合わせは1000通りに達します。ここに添加剤や合成温度、焼成時間などのバリエーションを加えると、材料候補の数は急速に膨れ上がります。
従来の実験だけでこれほど多くの材料候補をカバーするのは難しく、研究者は経験や直感に基づいて、実際に合成する候補を絞り込まざるを得ません。しかしこの場合、有望な候補を見逃したり、最適な材料になかなか辿り着けず開発が長期化したりするリスクがあります。
実験に時間がかかる
材料開発の実験には、多くの場合時間がかかります。材料の合成自体に数日から数週間程度を要するほか、装置の順番待ちや評価・測定の時間も必要です。例えば、電池材料の長期サイクル特性評価では、条件によって数か月以上を要する場合もあります[5]。
こうした物理的な時間制約が、探索サイクルにおける「検証」工程のボトルネックとなり、サイクル全体の速度を落とす要因にもなります。
実験結果の解釈が難しい
材料の性能は、界面構造、吸着挙動、拡散特性、不純物の状態など、多くの要因が複合的に関与して決まります。そのため、時間をかけて候補材料を合成・評価したとしても、「なぜその結果になったのか」という原因を特定・解釈するのが難しいケースもあります。
たとえば、リチウムイオン電池材料の開発では、電極/電解質界面の状態が電池性能を大きく左右しますが、界面層の形成メカニズムは複雑で、実験だけで影響を解明するのは難しいとされています[6]。このような場合、次の仮説立案に必要な科学的な洞察を得ることができず、探索サイクルを前に進めることが難しくなります。
材料分野の研究開発DXで「探索サイクルの高速化」を実現する手段

上記の課題が存在する状況でも探索サイクルの高速化を前に進める有効な手段として、本記事では「マテリアルズ・インフォマティクス(MI: Materials Informatics)」と「材料シミュレーション」の2つを紹介します。
マテリアルズ・インフォマティクス(MI)
マテリアルズ・インフォマティクス(MI)とは、過去の実験データや文献データを元に、「材料の組成・構造・プロセス条件」と「得られる物性」との間の関係を機械学習モデルに学習させ、物性予測や材料探索に活用する手法です。
MIの活用法は大きく「予測」と「探索」に分けられます。「予測」とは、学習済みモデルを使って、実験前に「この組成や条件でどんな物性が得られそうか」を見積もることです。一方の「探索」は、この予測結果を活用して、次に試すべき有望な材料候補を効率的に選択することを指します [7]。
MIにおける代表的な「探索」手法として知られるのが「ベイズ最適化」です。ベイズ最適化では、予測結果とその不確実性(標準偏差など)を考慮して次の実験候補を選定します。その後、新たに得られた実験データを用いて機械学習モデルを更新します。このような「探索→実験→モデル更新→・・・」のサイクルを繰り返すことで、目的の物性を持つ材料を効率的に見つけることが可能となります。
MIやベイズ最適化についてくわしく知りたい方は、弊社ブログ記事「マテリアルズインフォマティクス(MI)とは?基本的な考え方から最新の研究までをわかりやすく解説」もあわせてご覧ください。
MIの利点
MIの利点は、実験前の物性「予測」と次に試すべき材料候補の「探索」です。機械学習モデルによる「探索」を活用することで、優先度の高い材料候補を効率的に絞り込み、探索サイクルの「候補選択」工程を高速化できます。
先ほど示した「探索サイクルの高速化を実現する上での3つの課題」の中では、特に「探索候補となる材料が多い」という課題の解決に効果的といえます。また、無駄な実験を減らすという意味では「実験に時間がかかる」という課題にも間接的に効果がありますし、学習済みモデルを分析することで重要因子の推定や相関関係の可視化が可能という点では「実験結果の解釈が難しい」という課題にも貢献します。
MIの課題
一方で、MIにはいくつか課題も存在します。
- 学習に使うデータベース構築の労力が大きい:MIの精度は学習データの質と量に大きく依存する。実験データはプロジェクトごとに形式がバラバラである場合が多く、データを整備するだけでも相当な労力が必要となる
- 性能のよいモデルを作るのが難しい:モデルの構築にはデータサイエンスの専門知識が必要であり、材料研究者だけでは対応しきれないことがある
- 学習した範囲以外の「予測」が難しい:学習データの範囲外(未知の領域)では「予測」の信頼性が下がりやすい
材料シミュレーション
材料シミュレーションとは、材料の構造や組成を入力として、物理法則に基づいてその機能や特性を計算する手法の総称です。MIが「実験データを元に関係性を予測する」データ駆動型のアプローチであるのに対し、材料シミュレーションは「量子力学や古典力学などの物理法則を起点とする」原理駆動型のアプローチといえます。
材料シミュレーションには、対象とするスケールに応じて、原子・分子レベルのシミュレーション(DFT計算、分子動力学法など)からメゾスケール、マクロスケールのシミュレーションまで、さまざまな手法があります[8]。たとえば、原子・分子レベルのシミュレーションでは、定義した構造の安定性や原子の動き、化学反応の経路などを計算できます。実験では直接観察しにくい吸着挙動、拡散特性、界面の安定性なども推定が可能です[9]。
(原子・分子レベルの材料シミュレーション手法としてよく用いられるのが、密度汎関数理論(DFT)と分子動力学法です。それぞれについてくわしく知りたい方は、弊社ブログ記事「【初心者向け】密度汎関数理論(DFT)とは | 基礎編」「分子動力学シミュレーション入門」も参照ください)
材料シミュレーションの利点
材料シミュレーションの主な利点は、以下の2つです。
- 原理に基づく物性予測が可能:物理法則に基づくため、科学的な根拠のある予測が可能
- 現象の理解と科学的考察に寄与する:シミュレーション結果を元に、実験では直接観察しにくい現象やそのメカニズムを可視化・理解できる
これらの利点により、材料シミュレーションは探索サイクルの以下の工程を高速化することが可能です。
- 候補選択:シミュレーションによる材料候補の比較・絞り込み(仮想スクリーニング)が可能
- 結果解釈:実験では直接観察しにくい現象やそのメカニズムを可視化・理解することで、次の仮説立案に必要な科学的考察が可能
先ほど示した「探索サイクルの高速化を実現する上での3つの課題」の中では、特に「探索候補となる材料が多い」「実験結果の解釈が難しい」という課題の解決に効果的といえます。また、実験の代わりに材料シミュレーションを実施する(仮想実験)場合は、「実験に時間がかかる」という課題にも直接効果があります。
材料シミュレーションの課題
一方で、材料シミュレーションには以下のような課題もあります。
- 原子レベルの計算は非常に時間がかかる:特にDFT計算は計算コストが高く、1つの構造の計算に数時間〜数日を要する場合もある
- ハードウェアの準備やメンテナンスの負荷が高い:高精度な材料シミュレーションには高性能な計算機やクラスタが必要であり、その調達・維持にコストや専門知識が求められる
【表で整理】マテリアルズ・インフォマティクス(MI)と材料シミュレーションの比較
これまでに説明してきたMIと材料シミュレーションの特徴や違いについて、以下に改めて表でまとめます。
| MI | 材料シミュレーション | |
| アプローチ | データ駆動型(統計的) | 原理駆動型(物理法則に基づく) |
| 主な手法 | ベイズ最適化など | DFT計算、分子動力学法(MD)など |
| 探索サイクルのどの工程に主に効くか | 候補選択 | 候補選択、結果解釈 |
| 特に効果のある課題 | 「探索候補が多い」 | 「探索候補が多い」「実験結果の解釈が難しい」 |
| 利点 | 実験前に物性を予測可能、有望な材料候補を効率的に選択可能 | 原理に基づく予測で根拠が明確、現象の理解に貢献 |
| 課題 | 学習データの整備の労力が大きい、性能のよいモデルの構築が難しい、学習範囲以外の評価が難しい | 原子レベルの手法は計算時間が長い、ハードウェアの準備やメンテナンスが高負荷 |
このように、MIと材料シミュレーションにはそれぞれメリット・デメリットがあります。そのため、どちらか一方の手法だけに頼るのではなく、研究開発の状況やフェーズに応じて両者を適切に取り入れていくことが重要です。
研究開発DXを促進するAI活用の原子シミュレータ「Matlantis」
本記事で解説してきた「材料シミュレーション」は、原子レベルで高精度な計算が可能である一方、計算時間の長さや計算コストの高さといった課題があります。こうした課題を解決するための新しいアプローチとして注目されているのが、弊社が提供する「Matlantis」です。
MatlantisはAIを活用することで、高精度な原子レベルシミュレーションを従来より大幅に高速に実行できるクラウドサービスです。前述した「計算に時間がかかる」「ハードウェアの準備が大変」という材料シミュレーションの課題を解消しており、幅広い材料テーマにすぐに適用できる点が特長です。
Matlantisの具体的な活用方法や導入効果については、お客様事例ページをご覧ください。
まとめ
本記事では、材料分野の研究開発DXにおいて特に成果に直結しやすい「探索サイクルの高速化」に焦点を当て、現場で生じる3つの課題と、これらの課題が存在する状況でも探索サイクルの高速化を実現するための効果的な手段(MI・材料シミュレーション)について解説しました。
研究開発DXを推進する際には、自社の研究プロセスのどこにボトルネックがあるかを見極めた上で、MIや材料シミュレーションの導入を検討してみてはいかがでしょうか。
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レポート①:
マテリアル分野における計算化学の活用動向に関する包括的調査 ~研究開発戦略の策定に向けた最新トレンド分析~
10万件を超える論文を解析し、材料分野における計算化学の活用動向と今後の成長分野を可視化した資料です。研究テーマの選定や、研究開発DXの推進方法の検討に役立つ知見をご提供します。
材料研究開発の現場におけるAI駆動シミュレーションの活用実態を、米国の材料科学・工学分野の専門家300人への調査データをもとに分析したレポートです。計算リソースのボトルネックによる影響や、スピード・精度・信頼性のバランスを取る方法など、研究開発DXを推進する上でのリアルな課題と対策を把握できます。
【参考文献】
[1] 内閣府「研究DX(デジタル・トランスフォーメーション)」: https://www8.cao.go.jp/cstp/kenkyudx.html
[2] E. D. Foster et al., “Implementing an institution-wide electronic lab notebook initiative”
[4] NIMSデータ中核拠点 (MDPF), 「DICEとは」: https://dice.nims.go.jp/about.html
[7] Matlantisブログ「マテリアルズインフォマティクス(MI)とは?基本的な考え方から最新の研究までをわかりやすく解説」: https://matlantis.com/ja/resources/blog/what-is-materials-informatics/
[9] Matlantisブログ「【初心者向け】密度汎関数理論(DFT)とは | 基礎編」: https://matlantis.com/ja/resources/blog/dft/