テーマ概要
結晶構造解析では、原子の熱振動や位置の揺らぎを表す原子変位パラメータ(ADP)が重要な役割を果たします。従来は格子力学計算により求められてきましたが、置換不規則性や分裂サイトを含む複雑な結晶では適用が難しいという課題があります。本研究[1]では、分子動力学シミュレーションと機械学習ポテンシャルを組み合わせ、異方性ADPを直接導出する新しい手法を提案しました。これにより、熱電材料などの複雑系における原子の動的挙動をより正確に理解し、構造解析や材料設計に役立つ知見を提供することを目指しています。また、X線解析などの結晶構造データのADPと比較することで、解析結果の妥当性も評価できます。手法妥当性の確認に用いたMgOでは量子力学的補正を行うと実験と数%程度の差で一致、熱電材料としてのAg8SnSe6では実験と概ね20%以下のずれでした。
計算モデルと計算方法
本研究[1]では、分子動力学(MD)シミュレーションを用いて原子変位パラメータ(ADP)を直接導出しました。計算には、汎用ニューラルネットワークポテンシャル(Preferred Potential, PFP)を搭載したMatlantisを使用し、第一原理計算に基づく高精度なエネルギー・力評価を高速に実現しました。MgOや熱電材料を対象に、NVTアンサンブルと Nosé–Hoover サーモスタットを採用し、数十万ステップの MD を実施しました。得られた原子座標の時間平均から共分散行列を計算し、異方性ADPを算出しました。なお、ADPは原子の平均位置からの変位の平均二乗値を示す Uij 成分をもつテンソルとして算出しました。さらに、温度依存性やゼロ点運動補正も検討し、実験値との比較で手法の有効性を確認しました。
計算結果と展望


MgOでは、計算結果が温度に対してほぼ線形に変化し、量子力学的効果を加えることで(破線)、室温 で 0.0042 Ų とXRD による実験値 0.0038-0.0040 Ų [2]と良好に一致しました(図1)。Ag₈SnSe₆では、Ag原子の大きな異方性と「ラトリング」挙動が再現され、サイト分裂の可能性を示唆する結果が得られました(図2)。 300 K において、異方性の大きい Ag3, Ag1 サイトの 楕円形の 長軸と短軸の比率 U3/U1 は実験に対して それぞれ -15.8%, -17.6%、楕円形の大きさを表す Uiso は -5%, -12% の相対誤差を示しました(表1)。
論文[1]ではその他の熱電材料の結果も示しました。Na₂In₂Sn₄では、200 K以上で原子の移動が顕著となり、計算値が実験値を大きく上回ることから、拡散挙動の影響を考慮する必要性が明らかになりました。BaCu₁.₁₄In₀.₈₆P₂では、Cu/Inサイトの不規則性により、ADPの「原子単位」と「サイト単位」で大きな差が生じることが確認されました。
今後は、より長時間のシミュレーションや大規模スーパーセルを用いた統計精度の向上、量子効果を考慮したゼロ点運動の直接導入が課題です。また、ADPの異常挙動を利用した熱電性能向上や、結晶構造の精密化への応用が期待されます。本手法は、従来困難であった置換不規則性や分裂サイトを含む材料の構造解析に新しい可能性を開くものであり、今後の材料設計や機能探索において有力なツールとなると考えられます。
表1: 300K における Ag₈SnSe₆ 中のAg の U [Å2]

計算条件
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| ポテンシャル | PFP v7.0.0 CRYSTAL |
| 計算条件 | MgO 50,000 ステップ、 2fs、1000原子 Ag8SnSe6 60,000ステップ、2fs 、810原子 |
| 温度 | MgO 50-500K Ag8SnSe6 50-300K |
| アンサンブル | NVT |
参考文献
[1] Hinuma, Y., Acta Cryst, A81, 279 (2025) DOI 10.1107/S2053273325004620 [orcid.org], [journals.iucr.org]
[2] Lawrence, J. L., Acta Cryst. A29, 94 (1973); Sasaki, S., et al., Proc. Jpn. Acad. Ser. B 55, 43 (1979); Tsirelson V. G., et al., Acta Cryst. B54, 8 (1998)
[3] Takahashi, S., et al., Cryst. Growth Des. 24, 6267 (2024)
事例提供者プロフィール
国立研究開発法人産業技術総合研究所