計算が導き、実験が挑む。 HondaがMatlantisで進める研究の加速
- 株式会社本田技術研究所
- 業種:研究開発(輸送用機器・先進技術)
- 事業内容:Hondaグループの研究開発部門として、モビリティ領域を中心に、環境・安全技術や新材料などの先進技術の研究開発
「理論上、この物質は合成可能である、ということを計算に基づいて明確に示せるようになってきました。」 (川合氏)
電動化が進む中、自動車業界では車載電池の高性能化・高安全化・高耐久化がこれまで以上に求められています。株式会社本田技術研究所(以下、ホンダ)では、計算科学と実験が同じチームで進むという長年の研究文化を活かしながら、次世代電池材料の探索に取り組んでいます。
近年、ホンダでは、これまで培ってきた計算科学の活用をさらに発展させ、材料探索の精度と速度を高める取り組みを進めてきました。その中で、材料の物性をより正確に評価する計算環境の強化や、構造空間を幅広く検討する結晶構造探索(CSP)を含む探索手法の高度化など、多面的な技術ニーズが高まりつつありました。
こうした状況を踏まえホンダ内では既存の枠組みにとらわれない新たな計算手法の検討が行われ、多様なアプローチを一貫して扱える計算基盤の必要性が明確になっていきました。
その流れを受けて、ホンダとしてMatlantisを計算基盤として導入。
さらに、Matlantisを開発するPreferred Networksとの共同研究が始まり、結晶構造探索を効率的に行うための機能であるMatlantis CSP(以下、MTCSP)も活用が進んでいます。
現在では、候補材料の網羅的な探索や、合成可能性の事前評価をMatlantis上で行うことが可能となり、研究初期の検討プロセスの幅が大きく広がっています。
今回は、プロジェクトリーダーとして全体をまとめる川合光幹氏、計算を担当する松山治薫氏、計算と実験の両面を担う古田照実氏の3名に、Matlantis導入の背景、実験連携の変化、そして研究開発スピードを大きく押し上げた具体的な手応えについて伺いました。
Hondaの“計算×実験”一体型の文化
Q. 皆さんが所属されている部署のミッションと役割について教えてください。
川合:
私たちはホンダの中でも先端領域を担当する部署で、車載用電池を中心に電池材料の研究開発を進めています。私たちのプロジェクトは、計算科学を用いて有望な候補材料を探索し、その結果を実験で実証することを目指しています。チームは現在、計算担当者と実験担当者で構成されています。私はプロジェクトリーダーとして全体をまとめています。
Q. 計算と実験が同じチーム内で密に連携されているんですね。具体的にはどのような形で協力しながら研究を進めているのでしょうか。
川合:
計算および実験の担当者が同一のプロジェクト内に所属しているため、計算と実験の連携は日常的に行われています。計算によって得られた仮説や候補材料は速やかに実験チームへ共有され、実験による検証が進められています。
私がホンダに入社した約30年前より、計算と実験が同一チームとしてプロジェクトを推進してきた実績があります。そうしたこれまでの経験が基盤となり、現在のプロジェクトにおいても、計算と実験が自然に一体となった形で円滑に進められているものと考えています。
Q. 具体的にどういった材料研究をされているのでしょうか。
川合:
車載用の電池の材料の研究開発を進めています。電気自動車向けの電池は、“限られたスペースの中で、できるだけ高いエネルギー密度を確保しつつ、安全性も満たす”という大きな使命があります。このため、まずは小さなスペースにどれだけ多くのエネルギーを安全に積めるか、ここが研究の中心になります。もちろん、いま搭載されている電池も十分にエネルギー密度が高く安全なのですが、ガソリン車が長い時間をかけて性能を高めてきたように、電気自動車ももっと良くできると考えています。このような背景のもと、私たちのチームでは計算と実験を組み合わせながら、さまざまな材料の可能性を探っています。
計算と実験の壁──計算で出た材料が“本当に作れるのか”
Q. Matlantisの導入に至った背景を教えてください。どんな課題があったのでしょうか。
川合:
技術そのものというよりも、まず「手法面における課題」が大きかったと認識しています。計算の立場からは、「このような材料が有望である」「このような特性が望ましい」といった提案を数多く導き出すことができますが、それらを実際に合成し、材料として成立させる段階まで到達させることは、非常に難易度が高いのが実情です。現実には、成功事例はごく限られており、失敗に終わるケースの方が圧倒的に多い状況にあります。
計算側で「優れた特性を有する材料である」と評価したとしても、実験側からは「その材料は合成が困難である」と指摘されることも少なくありませんでした。実験チームを巻き込みながら研究を進めるためには段階的なプロセスが必要であり、まずは「当該材料が理論的に合成可能であるか」「理論上は高性能であっても、実際に安定して存在し得るのか」といった点について、十分に納得してもらう必要があります。そのため、材料研究開発においては、基底状態での安定性や取り得る結晶構造を事前に評価することが不可欠となります。
しかしながら、こうした構造探索を従来手法で網羅的に実施しようとすると、計算コストが極めて高くなるという課題がありました。一方で、機械学習ポテンシャルを用いることで計算速度が大幅に向上すること自体は、以前から知られておりました。ただし、従来の機械学習ポテンシャルでは精度面に課題があり、第一原理計算による検証を行うと、結果が大きく乖離するケースも頻繁に見受けられました。
そのような状況の中で、計算速度と精度の両立を実現した機械学習ポテンシャルとして、Matlantisの存在を知りました。関連情報を継続的に調査する中で、「高い精度を維持しつつ、計算も非常に高速である」ことが明らかになり、「これであれば、状態図や安定構造を広範かつ迅速に探索できるのではないか」と感じたことが、導入検討の最初のきっかけでした。
ちょうどその頃、隣接する研究チームにおいて、計算環境強化を目的としたMatlantisの検討および導入が進められていました。これを契機として、私どものチームでも株式会社Preferred Networks様との共同研究を開始し、その取り組みの中でMatlantisを本格的に活用するに至りました。

先進技術研究所 デバイス・プロセス領域チーフエンジニア 川合光幹 氏
“安定して存在し得る構造”を探索
Q. その“安定した構造を見極める”という部分でMatlantis CSPはどのように活用されているのでしょうか。
川合:
まず、「どのような機能や特性が必要か」という要求事項を明確にした上で、その条件を満たす可能性のある材料を計算上で設計しています。その際、当該材料が理論上のみならず、実際に世の中で安定して存在し得るかどうかを見極めることが不可欠となります。
こうした観点から、私どもはMTCSPを用いて材料探索を行っております。
本手法は非常に有用であり、組成情報から結晶構造そのものを予測できる点が大きな特長です。そのため、「この材料は合成可能性が高い」「この材料は安定性に乏しく、実現は困難である」といった、いわゆる“実在可能性(合成可能性)”に関する判断を、計算段階で行うことが可能となります。
導入以前は、主として熱力学的計算に基づく「安定性の確認」に留まっていました。計算上でモデル構造の生成を試みることはしていたものの、その近傍に存在し得る準安定構造までを含めて体系的に把握するには至っていなかったのが実情です。
しかしながら、MTCSPを活用することで、安定構造のみならず、その周辺の構造空間を含めた広範な探索が可能となりました。この探索範囲の広さこそが、本手法の最大の利点であり、材料設計の確度を大きく高めていると実感しています。
Q. 実際にMTCSPを触ってみて、使用前と比べてどんな変化や印象がありましたか。
川合:
導入前後で最も顕著な変化は、探索スピードの劇的な向上です。 従来は候補構造の探索に多大な時間を要していました。既存のコードを駆使し、試行錯誤を重ねても発見に至らなかった構造が、MTCSPでは短時間で候補として提示されました。 従来の手法では不可避であった長い時間をかけた探索プロセスが、導入によって飛躍的に効率化されたと思っています。
松山:
私はもともと第一原理計算でやっていたので、“あまりにも大量の構造を一度に計算できる”というのが、それ自体すごく衝撃でした。
仕組みについては、使う前からなんとなく分かったつもりでいたのですが、実際に触ってみると、組成の情報から「本当に安定な構造はどこにあるのか」や、「この組成はちょっと無理そうだな」というのが見えてきて、ちゃんと評価できそうだ、という実感が得られました。当たりをつけながら絞り込んでいく、というところにすごく活用できています。
古田:
Pythonコードベースで作られているので、中身そのものは完全には分からなくても、処理の流れが追いやすくて、ある程度透明性があると感じています。やろうと思えばカスタマイズもできそうですし、拡張性という意味でも扱いやすい印象があります。

先進技術研究所 デバイス・プロセス領域アシスタントチーフエンジニア 古田 照実 氏
デバイス・プロセス研究ドメイン 先進技術研究所 スタッフエンジニア 博士(工学) 松山 治薫 氏
Q. Matlantisを使う上で、精度の検証や他手法との比較はどのようにされていますか。
松山:
そうですね。今はかなり信頼して使えている感覚はあります。ただ、必要に応じて随時ほかの手法と照らし合わせていこうとは思っています。まずは「実験で合成できる題材を早く見つけたい」という思いがあって、できるだけスピード感を重視しています。最初から精度検証ばかりに時間をかけるというより、当たりをつけたものをまずはいくつか実験に回したい、という考えです。なので、精度確認そのものは、まだそこまで集中的にはやれていません。
川合:
これまで株式会社Preferred Networks様と共に検証を重ねる中で、Matlantisの機械学習ポテンシャルは十分な精度を有しているという結論を得ています。 また、既報の文献を用いた検証においても、再現性が確認されました。こうした実績に基づき、MTCSPの精度に対して一定の信頼を置いた上で、現在のプロジェクトに導入しています。 今取り組んでいるテーマにつきましては、先ほど松山より申し上げた通り、まさにこれから本格的な検証を開始する段階です。
計算が示す“可能性”が実験を加速させる
Q. Matlantisで計算が精度を保ちながら一気に速くなったことで、「当たりをつけるスピード」も上がっていると思います。その結果、実験側への依頼や進め方にも何か変化は出てきていますか。
川合:
MTCSPにおけるスループットの高さは、当初の想定を上回るものであると実感しております。 第一原理計算では困難な膨大な候補構造の探索も、Matlantisであれば短時間で計算可能です。 現時点では実験への本格的なフィードバックはこれからですが、候補構造の絞り込みが大幅に迅速化されることは容易に想像できます。 この点には非常に大きな期待を寄せており、今後本ツールをフルスペックで活用し、社内への普及が進むことで、実験を含めた研究開発全体がより一層加速していくと思っています。
Q. 現時点で「これは成果につながりそうだ」という手応えや期待感はありますか。
川合:
現時点では、「特定のテーマにおいて、実験と計算が完全に一体となって機能している」と言える段階に達しているのは一部に限られており、また、必ずしもフルスペックで運用できているわけではないため、今後はさらなる検証が必要な段階であると認識しています。
一方で、従来の手法で計算を行っていた頃と大きく異なる点は、「理論上、この物質は合成可能である」ということを、計算に基づいて明確に示せるようになってきた点です。
これまでは、「合成可能かどうかは不明であるものの、性能面での期待が高いため合成をお願いする」という形で、実験担当者に依頼せざるを得ない場面も少なくありませんでした。しかし現在では、「この物質は安定して存在し得るものである」と、理論的根拠をもって断言できる段階に近づいています。
これにより、実験合成を担う研究者が有する多様な合成ルートに関する知見を活かし、「この条件であれば合成可能かもしれない」といった具体的な検討のもと、さまざまな合成手法を積極的に試みていただけるものと考えています。
計算の迅速性と精度の双方が有効に機能し始めており、実験と計算の間で、より深いレベルでの議論や連携が可能になりつつある点については、大いに期待しています。

Q. 古田さんは実験も計算も両方経験されているとのことでしたが、今のお話を受けて、実験側の立場から見るとどのような変化が起きそうだと感じますか。
古田:
計算側のスペックが上がってくればくるほど、候補として挙がってくる材料はどんどん増えていくと思います。一方で、実験はどうしても時間がかかって、未知のものを一つひとつ作ろうとすると数週間〜それ以上かかることもあるので、そこがボトルネックになって進まなくなる可能性はあります。
それに対して、計算側である程度見込みを立てて絞り込んでおけるのであれば、実験側は有望なものから順番にやっていくことができます。その意味で、全体としての確実性は上がる方向にあると思います。
本事例の公開日:2026.01.28