
名古屋大学大学院工学研究科の2025年度下期「最先端理工学実験」では、AI原子レベルシミュレーター「Matlantis」を取り入れた化学シミュレーション実験の授業を行いました。AIシミュレーションという武器を活用することで、研究の質とスピードを劇的に向上させられる。その可能性を、計算化学の専門家ではない実験系の学生が、自分たちの手で体験しました。
11月15日には、2カ月にわたる計4日間の授業の締めくくりとして最終成果発表会を開き、受講者がそれぞれ取り組んだ計算結果をプレゼンテーション。「実験では見えない原子の世界」を目の当たりにした学生たちが、探究心を刺激され、試行錯誤の末ブレークスルーを見つけ出した結果が報告され、熱気のある授業となりました。
名古屋大学×Matlantis「最先端理工学実験」とは
本授業は、計4日間の集中講義として構成され、修士課程の学生を中心に、研究室ごとに実際の研究テーマを持ち込み、AIシミュレーションを用いた実習に取り組みました。
授業の一部では、Matlantisの開発・運用に携わるメンバーが講師として参加し、計算化学の基礎理論やツールの操作方法に加えて、「どのような研究課題に対して、どのような計算が有効か」「その計算をどのようにMatlantis上で実行するか」といった、計算の設計段階から学生と議論を重ねました。
本授業では、事前に用意されたケーススタディを実行するのではなく、自身が研究室でもつ研究テーマについて解析を行う点が特徴です。必要な計算モデルを構築し、計算条件を検討して実行し、結果を解析する一連のプロセスを体験しました。従来の計算化学教育では、計算時間や扱える系の大きさに制約があり、授業時間内で自身の研究テーマを扱い、試行錯誤を行うことは容易ではありませんでした。
Matlantisのクラウド型AIシミュレーションを活用することで、より大規模で現実に近い系を、授業の中で扱える環境が整えられています。プログラムは、座学とハンズオンを組み合わせ、基礎理論の理解から応用的な計算実習、課題研究、成果発表までを一連の流れとして設計。学生自身が研究テーマを設定し、シミュレーションと実験を往復しながら考察を深める研究プロセスを疑似体験できる点が、本授業の大きな特徴となっています。
実験と理論の「断絶」を埋める新たな試み
本授業の企画・運営を担当したのは、名古屋大学D-centerに所属する 鄭惠貞(チョン・ヘジョン)助教です。鄭助教は、実験と理論を往復しながら理解を深めることを重視した教育設計のもと、今回の授業にAI原子レベルシミュレーションを取り入れました。
「最先端理工学実験は、理論学習だけでなく、実践的な実験手法や解析技術を習得させることを主眼とする、大学院の学生を対象とした授業です。学生が自ら実験をデザインし、データ取得から解析、考察までを行うことで、問題解決能力や創造的思考力を養うことを目的としています。
これまでの授業では、実験データの取得や制御、解析を中心に取り組んできましたが、分子・原子レベルで起こる反応や挙動といった“目には見えない現象”を、授業の時間軸の中で十分に扱うことは容易ではありませんでした。従来の計算化学手法を取り入れようとしても、計算に多くの時間を要するため、限られた授業期間内で『仮説を立て、計算し、結果を見て考察する』というサイクルを繰り返すことが難しいという課題があったからです。
今回の授業では、こうした課題を解決する手段としてMatlantisを用い、化学シミュレーションの実習を行いました。Matlantisは非常に高い計算速度と直感的な操作性を備えており、学生がシミュレーションの実行そのものに集中しやすい環境を提供できます。計算結果をリアルタイムに確認できるため、学びながら即座にフィードバックを得て、仮説の検証や修正を行うことも可能です。
実際に学生自身が手を動かし、原子レベルの挙動や反応過程をシミュレーションすることで、材料の性質や構造への理解が深まる。その点に大きな教育的意義を感じています。」

最先端理工学実験を担当する鄭惠貞 助教
4日間で体験する、研究テーマを計算に落とし込むプロセス
今回の最先端理工学実験は、10月から11月にかけて4日間の集中講義形式で実施し、Matlantisの技術メンバーが講師およびメンターとして学生をサポートしました。
1日目・2日目:基礎・習熟フェーズで、計算化学の基礎理論の学習と、Matlantisの基本操作(構造最適化、振動解析、電子状態解析など)の習得に取り組みました。演習課題として、「アルミニウム表面の不動態(酸化被膜)形成」を題材に、原子レベルでのシミュレーションを実施。酸素原子がアルミニウム表面に反応し、内部への侵入を防ぐ層を形成する様子を可視化することで、「なぜ金属光沢が維持されるのか」というメカニズムを計算化学の視点で再確認しました。
3日目:応用・個別テーマのフェーズに移り、学生自身が所属する研究室の研究テーマを持ち込み、計算モデルを構築しました。Matlantisの技術メンバーが、パラメータ設定やモデル構築を個別に指導。「複雑な実験条件をいかに計算可能なモデルに落とし込むか」という、研究者として重要な視点を養ってもらいました。
4日目:受講者による成果発表会が行われました。各自が持ち込んだ研究テーマに対し、背景、仮説、結果、考察をプレゼンテーション形式で発表しました。
高速計算と可視化が導いた実験のブレークスルー
実験だけでは見えない世界を可視化し、試行錯誤のサイクルを高速で回し、研究の質を高める――。成果発表会のいずれのプレゼンも、受講者の皆さんが自ら手を動かしながら、Matlantisがもたらすメリットを体験してもらえたことがうかがえるものでした。

リチウムイオン電池の正極材に関する研究を行った学生は、従来スパコンで数カ月を要する多条件計算をわずか3日で完遂。Matlantisを活用することで短いサイクルで試行錯誤を重ねられるようになり、最適な配合バランスを導き出しました。また、X線用の特殊な鏡(LiTaO3)を作るための処理プロセスを解析した学生は、計算と実験結果の不一致から実材料に含まれる「微細な欠陥」の重要性に着目するなど、より現実に即したモデル構築への示唆を得ています。
さらに、太陽電池の表面加工研究では、添加剤が特定の結晶面に吸着し「保護マスク」となる様子を計算で可視化。添加剤の選定やプロセス最適化におけるシミュレーションの有効性を示しました。硫黄の導電性制御の研究では、さまざまなシミュレーションを試行する中で、計算化学ならではのセレンディピティ(偶然の発見)により実験のブレークスルーになり得る手がかりを見つけた事例も共有されました。
メンターとして授業をサポートしたMatlantisの技術メンバーは、受講者の取り組み姿勢や成果を高く評価します。「サイズや時間の制約で受講者が希望する実験テーマをそのまま計算するのが難しい場合、『この切り口なら計算できる』と誘導するのが私たちの役割でしたが、最終的には学生自身が独創的な発想でモデルを改良し、メンターの予想を超える結果を出したのは驚きました。計算経験がほぼゼロの状態から、短期間で高いレベルの成果を出したことに感銘を受けました」
試行錯誤がしやすくなり研究を大幅に効率化
プレゼン終了後、最先端理工学実験の受講者である細川三四郎さん、山口大翔さんのお2人に話を聞くことができました。実験系の研究室に所属する細川さんは、計算やシミュレーションの経験はほぼゼロで、当初は強い苦手意識を持っていましたが、今回の授業を経てその意識は大きく変化しました。
「普段の研究では実験の測定結果から推察して結論を出していますが、視覚的に現象を捉えることができていなかったため、Matlantisのようなシミュレーターを使って原子の動きを見ることができれば自分の研究に役立つのではないかと考え、この授業に参加しました。正直に言うと初日は、計算やシミュレーションへの苦手意識から、『怖い』とさえ思っていたのですが、Matlantisを使ってみると、そのハードルは一気に下がりました。
私の研究室では試料作成から測定・評価までを行っているのですが、試料作成だけでも2週間、長ければ1ヶ月近くかかります。これまでの実験では測定条件や試料作成条件を大雑把に変えるしかなかったのですが、Matlantisは簡単に条件を変更でき、短時間でさまざまな条件を試せるため、試行錯誤のサイクルが格段に速くなりました。また、事前にシミュレーションで『あり得ない条件』を排除できることは、研究の大幅な効率化に繋がるという実感があります。
この授業に参加した目的である『現象を視覚的に捉える』という点でも大きな成果が得られたと感じています。Matlantisではエネルギー的な安定性や原子間距離などを細かいパラメータで確認できるため、今までは『可能性が高い推察』止まりだったものの強い裏付けになりますし、逆に新しい考察が生まれることもあります。
私の指導教員もMatlantisの画面を見て目を輝かせていました(笑)。今後は自分の研究テーマでも使い続けたいですし、研究室の他のメンバーの物質にも応用できれば、ラボ全体の役に立つと考えています。」

細川三四郎さん
文献でしか見たことのない複雑な構造が目の前で動く感動
同じく実験系の研究室で原子レベルの界面研究を行っている山口さんは、これまで「シミュレーションには膨大な時間がかかるため、自分の研究テーマでは難しい」という先入観を持っていたそうですが、Matlantisを使って実際に手を動かすことで、その認識は覆されたと話します。
「この授業以前は、人づてに『シミュレーションはすごく時間がかかる』『時間をかけて計算してもピコ秒程度の短い時間の推移しか見られない』と聞いていたので、Matlantisも私の研究テーマのように10分間加熱するなど時間が長い系では活用が難しいと思っていました。
しかし、実際に指導いただいて、構造を工夫したり、吸着現象にフォーカスしたりすることで、長い時間の現象でも活用できる手応えを得て、自分の研究の幅を広げることができました。研究室でMDシミュレーションを専門とする人からは、『そんなに短時間でできるの』という反応もありました。
これまで計算の経験は全くなかったので、シミュレーションで出てきた結果はどんなものも新しい学びでした。とりわけ感動したのは、文献でしか見たことのなかった複雑な構造がシミュレーションされ、目の前で形が変わっていく様子を見られたことです。これまでの実験は原子スケールでは全く見られなかったので、どうしても直感的な判断に頼らざるを得ない部分がありました。Matlantisのシミュレーションによって原子の再構成や吸着の様子が自分のイメージに近い形で確認でき、『現実の系に即しているんだ』と確信できました。
今後も、実験だけでは不明な点が多い部分の考察にシミュレーションを役立てたいですね。」

山口大翔さん
学生たちのポジティブな変化を実感
鄭助教は全4日間の授業を振り返り、学生たちのポジティブな変化を実感したとのこと。Matlantisの高速計算と3Dでの可視化、AIによる数式処理が、計算やシミュレーションのハードルを下げ、「実験と理論の壁」を取り払う鍵になり得ると総括します。
「工学系の学生にとって、実験データは『結果』として目の前に現れますが、その裏側にある原子や分子の挙動は目に見えず、教科書的な知識や測定値から推測するしかありませんでした。しかしMatlantisは、それを3Dアニメーションとして可視化し、自分の手で動かして奥まで覗き込むことができます。学生たちは『実験では見えない世界』が目の前で動くことに感動し、それが強力なモチベーションになっていたと感じます。普段の講義では、途中で集中力が途切れてしまう学生もいるのですが、今回は全員が自分のやりたいことに夢中になっていました。
試行錯誤のスピードの大幅な向上もMatlantisの大きなメリットです。従来の研究プロセスは、理論を学び、時間をかけてシミュレーションを構築し、その結果をもとに、実際に材料やデバイスを作って実験し、ようやくフィードバックを得るという長い道のりでした。そのため、一度結果が出た後に仮説を修正してやり直すのは容易ではありませんでしたが、Matlantisなら仮説を立てて計算し、間違っていたらその場ですぐに修正して再計算する、というサイクルを短時間で回すことができます。このスピード感があったからこそ、学生は限られた授業時間内でも思い切って試行錯誤ができるようになり、積極性や自発性の向上にもつながった印象です。
実験系の学生が抱きがちな理論や数式への苦手意識を払拭する際に、Matlantisと生成AIの組み合せは強力です。実験系の学生は、手を動かして実験で得られたデータで勝負するのは得意ですが、複雑な数式が出てくると途端に身構えてしまう傾向があります。参加した学生の中にはMatlantisと生成AIを組み合わせて活用することで、その複雑な計算プロセスをAIに肩代わりさせていました。エラーが出ても、生成AIに聞いてみることで、難解なコードではなく日本語で『このパラメータを修正してください』と教えてくれ、学生はプログラミングや数学の壁に阻まれることなく、化学的な現象そのものの理解や仮説検証に集中できるようになりました。学生が自ら考え、現象の裏側にある本質に気づきやすくなっています。
AIと共存し、より戦略的な研究スタイルへ
今回の取り組みを経て、鄭助教は今後、Matlantisのようなシミュレーション教育をさらに積極的に取り入れていきたいとのこと。
「特に、実験を行う『前』の段階での活用は有効です。やみくもに実験を始めるのではなく、まずシミュレーションで広範な条件をスクリーニングし、有望な条件の当たりをつけるなどする。その上で、狙いを定めて実験を行うという『戦略的かつ計画的な研究スタイル』を学生のうちから身につけさせたいですね。」
Matlantisは今後も、名古屋大学をはじめとするアカデミアとの連携を通じて、材料開発やデバイス研究の現場におけるAIシミュレーション活用を広げていきます。
研究のスピードと精度を高めるだけでなく、実験系・理論系の垣根を越えた議論を促し、学生や若手研究者が「計算を使いこなす」研究スタイルを身につける。そのための基盤として、教育と研究の双方を支えていきます。
AIシミュレーションが研究開発の“当たり前の道具”となる未来に向けて、Matlantisは材料開発のプロセスそのものを進化させていきます。