
材料科学の要であるDFT計算は、高精度である反面、膨大な計算コストが課題でした。その打開策として期待された機械学習ポテンシャルも、これまでは特定の物質にしか使えない「個別最適」に留まっていました。
この「精度と汎用性の両立」という難題に挑み、誕生したのが、世界最高レベルの性能を誇る独自のAIモデル「Matlantis PFP(以下、PFP)」です。汎用原子レベルシミュレータ「Matlantis」の核となるこの技術は、いかにして誕生したのでしょうか。開発を主導した高本聡と品川幾に、その舞台裏を聞きました。
「3乗の壁」を突破する。不可能と思われた汎用モデルへの挑戦
――まず、「PFP」の開発が始まった経緯についてお聞かせください。かつては、材料科学のシミュレーションにどのような課題があったのでしょうか。
高本:一言でいえば、「汎用的なモデルが存在しない」という課題がありました。「PFP」が登場する以前も、「数千、数万といった原子スケールの挙動をシミュレーションできれば、多くのことが解明できる」という期待はありました。
しかし、汎用的なモデルを作るには、計算コストの壁が立ちはだかります。原子の挙動を正確に知るには、量子力学に基づく基礎方程式(シュレディンガー方程式)を解く必要がありますが、この計算量は広く使われている手法でも原子数の3乗に比例して増大します。
例えば、原子の数を10倍に増やせば、計算時間は1,000倍かかります。原子数が100倍になれば100万倍です。どれほどスパコンの性能が上がっても、この「3乗の壁」に阻まれ、現実的な時間内では到底計算しきれませんでした。理屈では解けるとわかっていても、計算する手段がないという状況だったのです。
そのため、当時は特定の物質や現象に特化した「個別最適」なモデルを作るのが限界でした。新たな材料開発を行う際には、また一からモデルを作り直さなければなりません。シミュレーションが材料開発を先導する技術になりきれず、もどかしい時代が長く続いていました。
――不可能と思われていた領域に、なぜ挑んだのでしょうか。
品川:大きなきっかけは、ENEOSとPreferred Networksの協業が始まったことです。ENEOSと協業を進める中で、現場には「触媒上での複雑な反応をシミュレーションしたい」という切実なニーズがありました。当時は、わずか数十原子の挙動を解析するのに、半年や1年、時には2年も費やすのが計算科学の世界では当たり前だったのです。
そんな折、Preferred Networksが「機械学習で物理計算を模倣する」というアプローチを提示しました。当時はまだ炭素や水素といった限られた元素で、小さな分子が扱えるようになったばかりの段階です。触媒のような複雑な系に応用することに対し、周囲からは「無茶だ」という声もありました。
ですが、もしこれが実現できれば、これまで年単位を要していた計算が一瞬で完了し、計算が実験を先導できるようになります。この「計算科学を、現場で使える真の武器に変えたい」という悲願が、開発の大きな原動力でした。
物理的にあり得ないことは、AIが「出力できない」構造に
――「機械学習で物理計算を模倣する」とは、どのような概念なのでしょうか。
高本:通常の機械学習、例えば画像認識や自然言語処理の領域では「ルールをデータから学習させる」という手法が王道です。しかし、材料シミュレーションの実用においては、このアプローチだけでは致命的な問題が生じます。一見、予測精度の高いモデルに見えても、いざシミュレーションを回すと現実にはあり得ない挙動を示し、原子構造が「爆発」してしまうような事態が起こるのです。
物理の世界には「絶対に守らなければならないルール」が厳密に存在します。それを無視して「だいたい合っている」程度の精度で計算を続けると、誤差が積み重なり、最終的には道具として使い物にならなくなってしまいます。
だからこそ、私たちは物理法則を単なるデータの近似で済ませるのではなく、ニューラルネットワークの構造(アーキテクチャ)そのものに組み込むべきだと考えました。今でこそこのアプローチは一般的になりつつありますが、開発当時はまだ異端でした。

――どのような物理法則をモデルに組み込んでいるのでしょうか。
高本:最も象徴的なのが「回転不変性」への対応です。物理法則は、観測者がどの方向から見ても、あるいは物質を回転させても、本質的な性質が変わることはありません。これを回転不変といいます。一方で、化学結合においては「原子同士がどの角度で結びついているか」という向きの情報が極めて重要になります。
「視点の回転には影響されないが、原子間の相対的な向きは正確に扱わなければならない」という条件を、数理的に整理する必要がありました。そこで私たちは、高階テンソルなどの数学的な手法を用いて、視点の回転に対して性質が不変に保たれる仕組みを独自に構築しました。
既存の経験的な原子間ポテンシャルをグラフニューラルネットワークとして再解釈し、物理的に正しい振る舞いを数式レベルで保証する。「物理的にあり得ないことは、AIがそもそも出力できない構造にする」という設計が、「PFP」の信頼性を支える核となっています。
――なぜ、ニューラルネットワークがこれほどまでに物理シミュレーションと相性が良いと確信できたのでしょうか。
高本:大きな転換点は、2012年頃に起きた画像認識のブレイクスルーでした。ニューラルネットワークが大幅に性能向上を達成したあの時期、なぜAIがこれほど高精度に画像を捉えられるのかを世界中の研究者が分析しました。その結果、ニューラルネットワークの計算プロセスは、実は物理学の計算と極めて近い構造を持っているという知見が得られたのです。それを知ったとき、「これならニューラルネットワークを使って、筋の良い物理モデルを作れるはずだ」と確信しました。
――まさに、機械学習と物理学という二つの領域が融合した瞬間ですね。
高本:余談ですが、私は大学で機械学習を、大学院で原子シミュレーションを専攻していました。当時は全く別のことを学んでいる感覚でしたが、今振り返れば、その二つのバックグラウンドがあったからこそ、分野をまたいで「AIを物理学の言葉で翻訳する」という発想ができたのだと思います。新しい技術を作っていくのには分野横断的な専門性が重要でした。
AIの自律的な改善×研究者のハンドメイド。「データの質」への徹底したこだわり
――「PFP」には、訓練データの生成にのべ3,200年分以上(取材時点)のGPU計算資源を投入している*と伺っています。これほど大規模なリソースを、どのように活用されているのでしょうか。
*…6,300万以上の構造からなる訓練データの生成にかかった計算量を1台のGPUで処理した場合の年数。
品川:一般的なAI開発では「モデルの学習」にリソースを割くイメージが強いかもしれませんが、私たちの場合は、その前段階であるDFT計算が最も重い工程です。量子化学計算の負荷は原子数の3乗に比例して増大するため、一つの構造を計算するだけでGPUを数時間、複雑なものなら丸一日動かし続けることも珍しくありません。
これを外部のデータベースに頼るのではなく、私たちは独自に、膨大なバリエーションのデータを生成し続けているのです。
――それほど膨大なデータを扱うとなると、AIが自律的にデータを改善したり、不足している領域を探索したりするような仕組みもあるのでしょうか。
高本:はい。学習が不十分なモデルでシミュレーションを回すと、ある瞬間に挙動がおかしくなることがあります。その「破綻した挙動」こそが、AIにとっての未知の領域、つまりデータが不足している箇所です。そこを特定して重点的にデータを補強することで、シミュレーションが破綻しないための精度を地道に底上げしてきました。
――AIが自ら弱点を見つけ、学習を深めていくのですね。
品川:ただ補足すると、AIによる自動生成だけでは不十分です。実のところ、データの9割以上はハンドメイドで構築されています。電池や触媒といった特定の用途で重要になる現象を正確に再現したい場合、AI任せの探索だけではどうしても限界があるからです。
「この現象を再現するためには、どのような原子構造をリストアップして計算すべきか」という指針を立てるのは、あくまで材料科学の専門家である研究者の役割です。AIに「足りない部分」をあぶり出させ、そこを埋めるためのデータを人間が設計する。このハイブリッドな体制が、データセットの質を担保しています。

誰も見たことのない「プロのための道具」を「Matlantis」として具現化する
――研究成果を「Matlantis」という商用プロダクトに落とし込むまでの道のりについても伺いたいです。プロダクト化の過程では、どのような壁に直面したのでしょうか。
高本:最大の困難は、私たちが作ろうとしているものが「世の中にまだ存在しないサービス」だったことです。例えばSNSのようなサービスなら、誰もが完成図を直感的にイメージできます。しかし、「汎用的な材料探索プラットフォーム」には手本となるプロダクトがありません。どのような機能があればユーザーに喜んでもらえるのか、全くの手探り状態でした。
――研究者にとっての「使いやすさ」をどう定義するかが、重要な論点になったのですね。
品川:当初は、とにかく使い勝手を追求しようと「構造ファイルをアップロードして『最適化』ボタンを押せば結果が返ってくる」といった、機能を絞ったシンプルなUIを想定していました。ところが、議論を重ねるうちに「これは違うのではないか」という違和感が強くなっていったのです。
――その違和感の正体は何だったのでしょうか。
高本:想定ユーザーである「研究者」という存在を深く掘り下げた結果、彼らが求めているのは、あらかじめ決められたルートをたどるだけの自動化ツールではないと気づいたのです。シミュレーションは現象を解明するための道具であり、試行錯誤のプロセスそのものに価値があります。機能を削ぎ落としてシンプルにしすぎることは、かえってツールとしての価値を奪いかねないと考え直しました。
品川:シミュレーションの世界は、ユースケースが極めて多様です。電池、触媒、半導体など、分野ごとに求められる計算手法も多岐にわたります。それらすべてを一画面のGUIに押し込めるのは不可能ですし、無理にそうすれば、専門的な研究には応えられない底の浅いツールになってしまいます。そこで、あえて「APIを通じて自由に操作できるプラットフォーム」という形を選びました。
高本:計算の部品(関数やパッケージ)はこちらで用意しつつも、それをどう組み合わせ、どう使いこなすかはユーザーである研究者の感性に委ねる。「プロのための道具」としてのスタンスを明確にしたことが、「Matlantis」が現在の形で受け入れられた大きな要因だと考えています。
顕微鏡のように、シミュレーションが研究の「当たり前」になる未来を目指して
――(取材時点で)150以上の企業や団体が「Matlantis」を利用していますが、ユーザーからのフィードバックによって技術が磨かれたエピソードはありますか。
高本:数え切れないほどありますが、象徴的なのはフォノン(原子の振動にまつわる特性)の再現性に関する事例です。製品リリース直後の2022年頃、一部のユーザーから「計算結果が期待される振る舞いと異なる」というご指摘をいただきました。
私たちはすぐに詳細な調査を開始し、独自の仮説を立ててモデルの改善に乗り出しました。実は、この「フォノンの再現性」は機械学習ポテンシャルに存在する奥の深い普遍的な問題であり、競合他社や学会でもようやく議論され始めたのは2025年頃のことです。現場の声があったからこそ、私たちは数年も早くこの課題を解決できていました。
――競合他社に先んじて、現場の課題に直面し、解決されていたのですね。
品川:他にも、現在取り組んでいる「r2SCAN」という新しい計算手法の採用も、ユーザーの声がきっかけでした。これまでのシミュレーションは、あくまで「教師データにどこまで近づけるか」を競ってきました。しかし、利用シーンが広がるにつれて、「計算上の数値は一致しているが、実際の実験値と合わない」というギャップが顕在化してきたのです。
調査を進めると、これはAIの精度の問題ではなく、教師データを作成する際の物理的な近似(計算条件)そのものが限界に達していることが分かりました。機械学習のセオリーからすれば、途中で学習データの条件を変えることはエラー率の増大を招くリスクがあり、本来は避けたいことです。しかし、お客さまが本当に求めているのは「計算機の中の正解」ではなく「現実世界との一致」です。そこで私たちは、より現実に近い高度な物理モデルである「r2SCAN」への移行という、大きな決断を下しました。

――お客さまの課題と真摯に向き合っているからこその改善ですね。では最後に、「PFP」や「Matlantis」が実現する未来について、お二人の今後のビジョンを教えてください。
品川:私の夢は、「Matlantis」を材料研究における「当たり前のインフラ」にすることです。例えば、今の実験科学者がX線回折を当然のプロセスとして行うように、材料開発を志す誰もが、まずは一つのツールとしてシミュレーションを回し、選択肢を絞り込む。そんな世界が当たり前になってほしいと願っています。
高本:私も全く同じです。「シミュレーションを導入した」ことがニュースになるうちは、まだ特殊な技術なのだと思います。新材料の開発を始めるなら、まず顕微鏡を買って、次に「Matlantis」を導入する。それくらい当然の存在でありたいですし、このツールを通じて画期的な新材料が次々と生まれる土壌を作っていきたいです。
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