
Physical AIとは何か
現在のLLM(大規模言語モデル)は、テキストから世界を学んでいる。これにより、これまでの人間が集積してきた知を取り込み、既に世界に大きな影響を与えている。
しかし、プラトンの言葉を借りれば、テキストは現実の「影」にすぎない。テキストには人間が言語化できた一部が記録されているだけで、物理世界で起きている現象の圧倒的大半はまだ言葉になっていない。また、そもそも言葉で書き表わすこともできない現象も数多く存在する。物理世界の多くは、論文や書籍、報告書にまとめられた結論の背後に、膨大な「言語化されない現実」として横たわっている。
Physical AIとは、この言語化されない物理世界そのものを「知」として構造化し、扱えるようにするAIである。私たちはPhysical AIが登場するより以前から、「現実世界そのものを計算可能にする」ことを目指し活動してきた。この「計算可能にする」という言葉には、計算機上で扱えるようにするということにとどまらず、現実世界で行動をおこすという意味も含めている。そうした中で注目されているPhysical AIは私たちのビジョンと大きく一致している。これが、私たちが次の10年で取り組む大きな課題である。
見えていない、もう一つのPhysical AI
Physical AIという言葉から連想するものとして人型ロボットや自動運転車を思い浮かべる人が多いだろう。ここではPhysical AIのもう一つの重要な分野を紹介したい。それは原子や分子といったミクロスケールの物理世界である。
これをMicro-Physical AIと呼ぶことにしよう。ここで主張するのはPhysical AIの中でMicro-Physical AIもまた今後の社会を大きく動かす鍵を握っているということである。
私たちの世界は、さまざまなスケールの積み重ねでできている。人のスケールであるセンチメートルからメートルは目に見える馴染みのある領域だが、その内側には材料の構造があり、材料そのものがあり、さらに奥には原子や電子の振る舞いがある。
原子の大きさはおよそ0.1ナノメートル。1メートルを地球の大きさに拡大したとき、原子はようやく数センチメートルほどの大きさになる。私たちのスケールで原子を考えるとは、地球のスケールで石ころをみるようなものである。それにもかかわらず、原子レベルの極めてミクロな振る舞いが、最終的な物質や材料の性質を決めている。
例えば、AIを支える半導体の性能は、内部の材料がどれだけ効率よく電気を流せるかで決まる。電気自動車やロボットに不可欠なバッテリーの性能も、構成材料の性質によって大きく変わる。持続可能な社会を実現するためのCO2吸着剤も分子構造の性質で決まる。
社会を縛る「材料の壁」
そして、現代の重要な課題を解くためには材料の問題に突き当たる。
次世代電池として期待される全固体電池。実現すれば安全で高性能なエネルギーシステムが可能になるが、鍵を握るのは「固体中をイオンがどれだけスムーズに動けるか」という極めてミクロな現象だ。エネルギー密度、劣化、短絡——残された課題のすべてが原子スケールの問題である。
AIを支える半導体も同様である。現在の予想では、全世界の社会を支えるAIを動かすために数十GWという規模の追加電力が必要になるとされる。この際、AI半導体やデータセンター、光電融合などの実現によって、こうした電力使用量を大きく下げることができ、AIの進化が現実的になる。この他にも、核融合発電も、量子計算機も、実現の鍵は「新しい材料」にある。
こうしたことから未来の技術は材料に大きく依存しているといえる。そして社会はいま、材料という制約に縛られているといっても過言ではない。
知能のスケーリング則は、現実のスケーリング則に突き当たる
材料が扱うのは物理世界の複雑性そのものである。新しい材料を作るためには、過去なかった新しい現象と向き合い、それを理解する必要がある。そのためには、膨大な試行錯誤、すなわち物理世界で資源の制約を受けながら実験を繰り返すか、物理法則に基づくシミュレーションを行うしかない。
一方で、従来のシミュレーションは精度を上げれば計算時間が爆発し、現実的なスケールを扱えなかった。
今、AIがこの状況を変えつつある。例えば、Matlantisのようなシステムは原子同士の相互作用を学習することで、高い精度を保ちながら従来よりも桁違いに高速な計算を可能にした。同様に、様々な分野でAIによってシミュレーションが劇的に加速され、反応や物性の予測が実用レベルで可能になりつつある。
一方で、例えば電子同士が強く影響し合う強相関電子系、これは超伝導や磁性といった物質の個性を決める重要な現象だが、その振る舞いは極めて複雑で、現在のAIでも容易には扱えない。原子レベルの振る舞いから、マクロな物性が立ち現れるまでの間には、想像を超える複雑性の階層がある。数センチのサンプルを見て地球全体の気象を語るようなものだ。
よく世の中では人類を超える知能の実現が引き合いに出され、それによって特定の仕事がなくなるかどうかが議論されているが、材料分野においては人類を超える知能が実現したとしても、材料開発の課題がすべて解き明かされることはない。AIがどれだけ進化しても、物理現象のすべてを前もって予測できるようにはならない。
どこまでも現実世界の複雑さが残り続け、探求がつづけられる。
研究者とAIエージェントが共に材料開発する未来
こうした中、Micro-Physical AIが実現する未来を想像してみたい。
ソフトウェア開発の分野では、AIエージェントを活用した開発がこれまでにない加速を実現している。しかし、材料開発の分野にAIエージェントをそのまま持ち込むことは難しい。なぜなら、実験部分の並列化や高速化が困難だからだ。バーチャル世界で完結するソフトウェア開発とは違い、Physical AIでは現実世界での実験がボトルネックとなる。
ここで、シミュレーションが重要な役割を果たす。劇的に高速化されたシミュレーションを用いることで、物理世界の制約から解き放たれ、並列かつ加速化された世界の中でAIエージェントがこれまでにない研究を進められるようになる。もちろん実験も欠かせない。この部分も、マクロなPhysical AIによって実現された自動実験システムが担う。
例えば、研究者が「より高性能で安全な電池材料を作りたい」と考えたとする。AIエージェントが過去の論文や特許、自社のこれまでのデータなどを調査し、既存材料を比較し、仮説を立て、シミュレーションを回し、実験を繰り返す——こうしたプロセスの大部分が自動化される。そして、これまでにない規模での並列化・高速化が実現される。研究者はそのプロセスのサマリーや重要と思われる部分を確認し、ときには直接介入する。
また、人とAIは議論を重ねながら今後の研究の方向性を検討する。これまでの結果をもとに、どのような目標を重視するか、どんな制約を設けるか——人の作業時間がボトルネックになることはない。人は常時出てくる結果を批評し、研究テーマや環境を設計することに多くの時間を割くようになる。こうした活動は「ハーネスエンジニアリング」と呼ばれ、既存データやプライベートデータをAIがアクセスしやすい形に整備するとともに、シミュレーションや実験環境も整えていく。なお、これらを整備し続ける活動もAIによってサポートされるだろう。
無数のエージェント群が24時間365日、膨大な数のシミュレーションと自動化された実験を走らせ続ける。想定外の結果が出れば研究者に共有し、追加の検証を行う。さらにロボティクスを活用した自動実験が常に計画され、仮説の検証が絶え間なく続けられる。
私たちが目指すもの
材料はいま、社会の上限を決めている。電池、半導体、核融合、量子計算機——人類の未来を左右するほぼすべての技術が、材料の壁に阻まれている。この壁を、AIと計算と実験の融合によって押し広げる。それが私たちの挑む領域である。
Micro-Physical AIは、目に見えないミクロな世界で現実そのものを理解しようとする、人とAIの共同作業であり、未来を左右する挑戦である。
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